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  • 2015.01.02 Friday
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『真理は固定したものではない』

 
道の道とすべきは、常の道にあらず。
名の名とすべきは、常の名にあらず。
無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく。
故に常に無をもってその妙を観(しめ)さんと欲し、常に有はもってそのきょう徼(きょう)を観さんと欲す。
この両者は同出にして名を異にす。
同じくこれを玄と謂う。
玄のまた玄は、衆妙の門なり。
〜老子〜
(『中国の思想 第6巻 老子・列子』奥平卓・大村益夫訳 徳間書店より抜粋)


勝手な解釈:
『道』というのは、真理の様なもので、直接感じることが出来ないもの
『名』というのは、人間が言いあらわしたもの
という、道と名を対比してる様に見えます。
要するに、両方とも絶対的なものでは無いということかな。

『無』は、表現できる全てのものが出来る以前の状態で
『有』は、それらが出来た後の状態
何やら、四次元的な概念を感じますね。

『無』は、それ故に、表現できるものを創り出そうとして
『有』は、それ故に、無に帰ろうとする
両者は同じ状態には留まらない動的なものだということですね。
なんかビッグバン以前と以後の宇宙を感じます。

『無』と『有』は、要するに同じものだが、異なった言葉で表す
四次元的宇宙を網羅する壮大な概念を感じます。

それらをひっくるめて『玄』と言う。
そこから全てのものや状態が生まれる
『玄』というのは、空間をも創り出すエネルギーみたいなものですかね
エネルギー保存則でエネルギーは保存されるけど、その状態は常に変化しているみたいな…
(^◇^;)
空間の無い世界というのは、凡人の私には理解しがたいけど、基礎物理学者なら理解できるのかもしれない。

道は無としか言えないもので、名は有に属すという解釈もされていますが・・・

『道の道とすべきは、常の道にあらず』という
一つ目の『道』は、本来の真理で、
二つ目の『道』は、道として表したもの
三つ目の『道』は、その時点、その状態での真理

『道』とは、『無』と『有』の間の動的状態における変化する方程式の様な概念であり・・・
つまり、『玄』における変化する方程式の様な概念。

従って、その時点その時点、その状況その状況において、道は常に変化しているのだから・・・
一つ目は、その全てをひっくるめた『玄』におけるもの
二つ目は、過去において表した方程式、つまり過去のもの
三つ目は、その時点における方程式、つまり現在のもの

ですね。

『名』は、概念を言葉で表したもので、道を説く時の道具。
つまり、『道』と同じように変化する。

だから、私としては『道』と『無』は別の概念ではないかと思う。

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